追悼

在りし日の父とチョッパー

今から約2週間前、9月8日の午前11時10分頃に父を亡くしました。
末期の癌でした。最後にブログをアップした直後の出来事でした。
突然、母からの連絡で末期の癌である事が判明しました。正直、言葉が全く出ませんでした。
当人が、非常にプライドの高い人で、家族であっても人に弱い所を見せるのを非常に嫌う性格が災いして、最初は50肩のような症状を訴えていたのですが、とても切ない結果を迎えてしまいました。
癌と言う病名が解って、闘病生活はわずか半年でした。
それでも最期の一瞬まで、家族と会話でき、家族を思いやって貰えたのは当人にとっても、自分たちにしても、本当に幸せであったと確信しています。
診断がついた時の宣告は、余命半年でした。そして医師の宣告通りに半年でこの世を去りました。それでも幸せであったと思えるのは、大変失礼ながら、今年の3月に起こった東北大震災のせいでした。
あの日、3月11日に東北三陸を襲った津波。一瞬にして数多(あまた)の生命を奪い去ってしまいました。自分も30代後半にさしかかり、幸いにも2人の子供にも恵まれました。
でも、あの日3月11日に目の前で幼い家族を失われた方も多数おられます。かたや自分は62歳の父親を半年後に失う宣告を受ける事ができた。ひどいようですが、心の準備はある程度整えることが出来ます。
7月の暮れに、緩和ケアセンターと言う所に入院し、8月の暮れに母が看護士だと言うこともあり在宅医療に切り替え、父の最期は自宅でとの言葉通りに、遠く九州で仕事をしていた弟も緊急で帰宅し、家族全員で見守られながら旅立った父。
前々回のアップで紹介したチョッパーは、一番大好きな人が突然居なくなった現実をまだ受け入れられていないように見受けます。
初老の白髪の紳士を見かける度に、悲しい位に目で追いかけ、思い出の場所では常に周囲の気配に気を配っています。全く何も伝えてあげる事が出来なかった彼が、本当は心が張り裂けそうな位に一番辛いのかも知れません。
末期の癌の父が意識を失ったとき、母と弟はこれでもかという位に父を呼び続けていました。でも自分は全く何も言う事が出来ず、ただ見守っていました。
母から宣告された瞬間から、覚悟が決まってしまったと言うのもあるかも知れません。
ただ、癌の宣告をされて、通院する度にどんどん増えていくモルヒネの量。退院した後の苦しみ方。そこまで戦わなくてはならないのか。とても呼び掛けて、戻って来てとは言えませんでした。『もう十分やん。もう、逝ったらエエで。本当にありがとう』そう心の中で呟くのが精一杯でした。下手に声をかけて呼び戻したらアカン。それだけでした。
母と弟が涙しながら絶叫している隣で、唇を真一文字に結んで涙一つ流さない長男。
自分でも以前から感じていたけど、本当に現実主義で冷たい人間だなと感じました。
本当に何を書いているのか、何が書きたいのか、自分でもよく解らない状態です。
通夜の時も、葬儀の時も、出棺の時も、火葬の時も、収骨の時も、自分で悲しくなる位に涙が出ませんでした。
いつの時も、父の深い深い愛を感じていました。そして今も間違いなく感じています。
それでも泣けないのは何故なのでしょうか。長男だからでしょうか。何事も理屈で考えて、無駄な事は一切したくない冷たい人間なのだからでしょうか。
本当は収骨の時、二度とは戻らない父の姿を見た時に、自分では絶対に号泣すると思っていました。でも、その時になると、心に本当に大きな穴があいて、それまでは実家に居た父が、本当に安らかに、本当に苦しみから全て解放されたかのように、全く病気も何もないように、すごく楽で普通の寝顔をしていた父が、納棺したり…
アカン。今ガチで泣けてきた。今になってかよって感じで…。
そう。納棺したり、火葬場に行って、最後に別れるまでは、本当に今にも普通に起きて来そうな感じで、それが骨になって出てきて、マジで癌に負けたんやなって思うと、何か切ないやら悔しいやらで泣ける感じと全く違った。
今、このブログ打ちながら、逆にプレイバックして号泣みたいな…(恥)
話が前後しまくって、読んでくださってる方には本当に申し訳ないです。
もっと素直に泣きたいですね。ちなみにチョッパーは、今朝も父を探していました。そんな姿を見ても、正確に現状を彼に伝えてあげる事も出来ず、とても歯痒(はがゆ)く、切なく、悔しく。チョッパーに本当の事を理解させてあげたいです。
父はもう帰って来ない、チョッパーと同じ様にみんなさびしいと。
でもチョッパーに正確に伝えるのはかなり難しいですね。
書きながら見返してみてもすごい乱文、とても恥ずかしいです。
少し落ち着いたので父の最期を。喫煙者で肺癌だったので、すごくタンが出まして、吸引機でタンを吸って、その後に元の姿勢に戻してあげて、突然意識が無くなりました。母は違うと言うのですが、前日位から物凄く静脈が見えてたんです。癌の進行で血管が弱ってるなって、当人の聞こえない所で話したりしていました。
多分、その前後に脳の血管が破れていたと思われます。意識が無くなって呼吸が停止するまで、本当に10分、5分くらいだったのではないでしょうか。
在宅医療で(当然、救急車を呼んでどうにかなるような状態でもなかったので)、医師が来られて死亡確認って言う感じでした。先述のとおり、とても安らかな顔でした。本当にそれが全ての救いになっている感じです。
今日のブログはこれ位にて終了したいと思いますが、このブログに一つ意味を込めたいと思っています。
生前の写真もアップしています。
自分の父親がオヤジ様が、この世に生きていた。
そんな証を確かにこのはてなダイアリーの片隅にでも遺(のこ)したい。その意味を込めてアップしました。
あと、癌の患者さんを介護されている多数の方がおられると思います。その方々に何かしらのヒントになれば。切に願います。
この父親との別れ。どうにか形に残したいと考えています。
今日のブログで、父の死を知られた方。本当に申し訳ありません。癌で弱った姿を見られたくないと、父の意向でどなた様にも知らせておりませんでした。元同僚の方、親戚にも知らせておりませんでした。心よりお詫び申し上げると共に、父に哀悼の意を捧げてくださればあり難く存じます。